大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和43年(あ)1046号 決定

主文

本件上告を棄却する。

理由

被告人本人および弁護人小見山繁の各上告趣意のうち、憲法二三条違反をいう点について、

特定の大学の管理に属しないで、一般に大学に在籍する学生に居住の場を提供している施設を利用する学生が、その居住生活に関して行なういわゆる自治活動は、それ自体としては大学の学生として享有する学問の自由と直接関係のないものであるから、論旨は前提を欠き、適法な上告理由とならない。

被告人本人の上告趣意のうち、憲法一九条、二一条、二八条違反をいう点、および弁護人小見山繁の上告趣意のうち、同法二五条、二六条、二九条二項違反をいう点について。

所論のうち、財団法人学徒援護会による館費引上げ等の措置が学生の生活権を破壌することを前提に憲法二五条違反をいう点は、右借置が健康で文化的な最低限度の生活に具体的に特段の影響を及ぼす事実は本件記録上認めることはできず、その余はすべて東京学生会館における学生のいわゆる自治活動が同法二三条によつて保障されていることを前提とするものであつて、論旨はいずれも前提を欠き、適法な上告理由とならない。

各上告趣意のうち、その余の点について。

所論はすべて事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

また、記録を調べても、同法四一一条を適用すべきものとは認められない。

よつて、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(江里口清雄 関根小郷 天野武一 坂本吉勝 高辻正己)

弁護人小見山繁の上告趣意(補充)

第一、原判決の憲法違反について

原判決は以下のとおり憲法の解釈を誤り、被告人の本件公訴に係る行為の正当性を否定する誤りをおかしたものである。

一、原判決の基礎的認識とその誤りについて

原判決は「学徒援護会は、自己の施設たるこの会館を自己の責任において、自己の方針に従い管理運営することは、当然であつて、国に対しても、会計法規、国有財産の管理に関する法令および補助金等に係る予算の適正化に関する法令および補助金等に係る予算の適正化に関する法律等による規制のもとに、これを管理運営する責務を負つていたといわなければならない」とし、それゆえ「入館選考、退館処分その他学生会館の管理事項に関する諸事項を処理する権限や、各学生会館に対する予算を配分する権限が学徒援護会に帰属すること自体については、法制的に疑問の余地がなく……館生の自治の限度の最終的決定権は、教育目的や効果などを考慮しつつ館生を指導するという立場にある援護会に」ある旨判示している。かような基礎的認識にもとづいて本件東京学生会館移転にあたつての学徒援護会の諸行為につき「館生らの自治活動の範囲が従来より狭められることは、否めないとはいえ、これも東京都およびその近郊の住生活の実情や館生らの自治活動がすでに長時間正当な限界を逸脱していたことに照しても、まことにやむを得ないところであり、もとよりこれにより、館生らの学問の自由を保障するために必要な自治活動までが制限される状況にあつたとは考えられず、また、館生らの生存権ないし生活権が侵害されるとも解せられないのである」と結論したのであつた。この結論についてはまず公知の事実とはいえない「東京都およびその近郊の住生活の実情」との対比がいかなる証拠調手続も講ぜられぬままに突如として行われた違法が指適されるのであるが、さらに憲法の解釈を誤り、被告人の学問の自由、生存権を守る行動すなわち学徒援護会の憲法破壊行動を阻止する所為を有罪と断定する反憲法的所論という外はないのである。以下その論拠とするところにつき順次摘示することとしたい。

第一に、原判決がかように被告人ら会館学生の行動の正当性を否定する結論をとるに至つたのは、学問の自由および生存権の内容及びひろがりについての解釈を誤り、そのために、学徒援護会の経営権、管理運営権が、憲法上保障される学生の自治活動を侵犯しない限度で承認されるべきだという事理を忘れ去つた所に由来するものである。

なるほど原判決は憲法二三条に規定する学問の自由について若干の部分を割き、「これを学生の立場からみれば、学習の自由、学問的見解の発表の自由にあるということができる。そしてかかる学問の自由を護り、学問の進歩、発展を期するには、学生の健全な自主的精神、批判的精神を助長すべきであり、学生の適正な自治活動はこれを尊重し、むしろこれを育成助長すべきものといわなければならない」と述べている。学生の適正な自治活動が学問の自由の保障についての要件であるかの如く述べる以上の措辞は、一瞬かつてポポロ事件に関する最高裁判所大法廷判決に先立つ東京地方裁判所判決、東京高等裁判所判決、の精神と共通しているかのごとき錯覚を生ぜしめる。しかしながら、この錯覚たることは右の措辞につづいて原判決が、しかし学生は、教育者ではなく、あくまでも修学途上の教育を受ける立場にあるものであるから、学問の自由が保障されたからといつて、無制限な自治行為が許容されるものではない」とし、自治行動の限度範囲の決定については、最終決定権は教育目的や効果などを考慮しつつ学徒援護会に属する」と断定するところから明白となる。学問の自由の必要要件として学生の自治が真に認定されるときには、自治行動の範囲の決定については憲法上の保障の範囲を侵してはならない。いいかえば、その最終決定権はまさに憲法にあるといわなくてはならないのである。そうであつてみれば、学生の自治活動はどのような目的にもとづき、どのような態様をもつてどのような程度にまで保障されるべきかについて論理的で具体的な考慮が判決理由作成にあたつて示されるべきことは当然といわなくてはならない。しかるに原判決は、学生の自治活動についてきわめて抽象的にその尊重、その育成助長をうたうのみである。反面、学徒援護会の経営権、国有財産の管理の視点から由来する学生の自治行動の否定、制限については、入館選考権以下具体的かつ詳細、かつ断定的に摘示しているのである。結局のところ原判決において学生の自治、学寮の自治は、憲法上の具体的な保障の対象ではなく、抽象的な精神規定上の問題として理解されているのであつて、極言すれば単なるリップサービスにとどまつているとしか判断できない。

右の如き原判決の誤りは、結局において学生の自治を一方において学問の自由の必須の要件として理解せず、本質的には教育上大学当局、学徒援護会などが裁量をもつて配慮すべき技術的な事柄にすぎないと理解していることにもとづく、ここでは学問の自由の直接のにないては大学において学長、理事会、援護会など学生以外の教授、研究者、その他の関係団体において会理事者らに予定されており学生は大学において一個の主体としてではなく教育上の客体としてのみ遇されているのである。原判決にあつては学生の自治が今日学生大衆の生存権の具体的な制度的保障手段となつていることがまつたく看過されているといわざるを得ないのである。

二、学生の自治、学寮の自由に関する憲法解釈について

弁護人は、この際学生の自治が学問の自由、生存権の保障について占めている重大な憲法的意義に関し、すなわち学問の自由、生存権の保障について学生の自治の保障が不可欠であること及びこれらの権利を守り、侵害を阻止するについて学生も教授、研究者らとともに努力すべき主体としての憲法的任務を負つており、その任務を学生大衆の組織的努力によつて果すこと、したがつて自治行動にもとづいて進めるべき権利を憲法上保障されていること、それゆえ本件はかかる権利が学徒援護会によつて侵されて生じた事件であることを明らかにしたいと考えるのである。

ここではまず第一におおよそ大学教育の意義ないし存在理由が想起されなくてはならない。大学ないし大学教育は単に既存の権威、既存の知識、既存の道徳ないし思想をそのままに伝達する存在ではないという点である。既成の権威、知識、思想を批判し、ときには打破するところにこそ、人類の輝しい未来を切り開いて文化的、科学的業績を打ち立てていく大学ないし大学教育の存在理由があるといわなくてはならない。かかる存在理由ないし使命を達成するためには、学内研究者に研究内容、教授内容の自由を認めるのみでは足りない。というよりもこの際何よりも保障されるべきなのは、自由、自主、すぐれて批判的な精神の発動とその助長であり、制度的保障である。かかる精神は、原判決の如く教育の客体としてのみ学生が遇せられることによつては到底達成されないものである。すなわち、単に教授、研究者に該当するのみでなく、次代の知識的にない手であり、既成の権威、知識、思想に対する批判者たるべきである学生に十分に保障されなくてはならない。自主的精神の養成は、彼らを教育の客体の地位に置き現在の権威、知識のにない手の裁量の範囲内でのみ、さながら高校生の如き自治を与えられることによつてはとうてい成就しえないものだからである。この意味で大学は単なる高等教育機関ではなく研究と批判の場としての本質をもつていることを忘れてはならない。

第二は、大学制度の沿革に由来する点である。つとにポローニア大学が学生の組合、パリ大学が教師と学生の組合として、すなわちいずれも学生を大学構成の主体として創立されたという歴史的伝統の上に今日の大学制度は成立しているのである。明治憲法体制が打破され、民主主義思想を基本として定立された現憲法体制の下に学問の自由を考えるにあたつては、当然に遠く中世以来の学生を主体としつつ世俗権力に対した自由主義的、民主主義的伝統に依拠すべきは当然のことといわなくてはならない。かように学生が大学の構成主体である点については今日西ドイツ、フランスにおいてすら漸次承認されている現代的な事実であることも想起されたい。このことは前記の大学の存在理由に関する考察の歴史的背景をなすものということができよう。

第三の根拠は、大学の現代的な存在構造にもとづくものである。かつて大学教育の機会がブルジョアジー、地主層の子弟に独占されていた時代があつた。わが国に着目するならば、明治、大正時代においてこれは典型的だつたが、しかしなお第二次大戦の時期まで崩れつつもその状況は存在した。戦前における総合的自治寮としての先進的経験を今日に伝える第一高等学校などの自治も、こうした出身階層の共通性ないしは支配層の後継者養成という観点から予定調和的な信頼感に根ざしていた点を否定することができないのは第一審において穂積重行証人の証言にも明らかなところである。けれども世界的にいえば現代すなわち第一次大戦以降、わが国では持に第二次大戦の敗北を転機とするわが国社会の変動を背景として、学生の出身階層、生活構造に決定的な変化を生じている。すなわち今日出身階層別に見るとき、学生の圧倒的多数は労働者階層を中心とする一般大衆の子弟である。その生活状況を見るとき、学生「大衆」の名が全くふさわしいように量的にも増大した学生は、経済的にも貧困化し、昭和三九年八月「わが国の高等教育」において文部省自身すでに認めるようにその出身家庭の困窮はいちじるしいものがある。他方、独占資本は、自らが当面している体制的危機を回避するため、生産力拡大政策を強行しており、これに即応して高度化する技術水準に見合つた中級労働者の大量創出を必要とするに至つている。これが産業界、文部省などの独占資本と支配層とこれに従属する大学当局によつて推進されたいわゆる「産学共同」教育路線である。大学管理法案に見られる学内の官僚的統制のくわだて、マスプロ教育、技術者養成に偏向した目的教育とその反面たる基礎教育の軽視、学園内合理化政策のあらわれとしての学費、寮費値上げなどは、いずれも産学共同路線の具体的な現象形態をなすものである。ここでは、大学教育は独占資本の手段としての地位に転落させられており、自由で自主的な精神の所有者の育成とか、真に人類の進歩を考える知識的にない手の育成といつた観点は消え失せている。多く労働者階級の出身であつて貧困に苦しむ学生大衆が、独占資本の要求にいよいよ露骨に従属する大学当局者に対し、学習、研究、さらに生活、生存上の不満と要求を抱懐するに至つたのはまつたく必然的な傾向といわなくてはならない。大学内部における予定調和の条件は失われたのである。ここにおいて学生が、その学問、研究上の目的さらには生存権の擁護の目的を達成するためにとくに必要とするに至る点は何であろうか。それは一方において学生の大衆的な共通性に依拠した自治活動が学生の権利擁護のための制度的保障として確立されることである。ところで、自治会の自主的な結成と自主的運営が確立されているか否かについては、入退館の選考、決定、寮生の統制、規律保持、予算の実施、文化的活動などの寮生の組織的諸活動における自主的運営が認められるか否かを最低限度の標識として決せられることとなる。このことは憲法の規定より導かれるものであるのみならず、本件東京学生会館をはじめとする戦後における学寮運営の経過が教え示すところである。そうであるからこそ、学徒厚生審議会も、入寮選考に関して、反動勢力が多数を占めていたにもかかわらず、「共同生活の連帯責任を負担する寮生として入寮者の選考に関心をもつももつともなことである。したがつて実際の選考過程においてはA「大学当局だけで行う」B「大学当局と学寮とが協力して行う」C「寮生だけで行う」などの場面が考えられる」と述べ、かつ右の如き運営に関する規則制定にあたつては、「充分に寮生の意見をきき、教職員と寮生との間の相互の信頼関係において学寮の運営が行われることが重要である」と述べ、学校、学寮当局側の一方的規則制定が許されない旨を指摘しているのである(昭和三七年七月二五日付学徒厚生審議会会長山政道から文部大臣荒木万寿夫にあてた「大学における学寮の管理運営の改善とその整備についての答申」参照)。他方において予定調和の条件の失われた状況の下で、右大衆的自治組織の確立を基礎とした大学運営に対する発言権の保障、いいかえれば団体交渉権の適切な保障が必須となるのである。とくに団体交渉権については、労働者の団体交渉権の容認が、労働者大衆の資本家、使用者らに対する生存権確保の要求に発したことを想起する必要がある。大学および学生のおかれている右のような現代的背景ないし状況にかんがみ、学生の憲法的自由、権利を確保する手段として学生自治組織に大学その他の当局に対し団体交渉権の保障を行うことは憲法二三条および二五条の解釈上決して意表外の帰結でないことが理解されるはずである。

さて以上の如き学寮の自主的自治運営体制に関しては、戦後における東京学生会館創立以来の経過の中で、自治規則、入退館選考、日常管理統制、文化的諸活動さらには全国学生会館の予算配分のいずれの側面についても、東京学生会館において達成され確立されており、第一審判決も認めるように、広汎な自治を行つてきたことは明瞭である。

すでに詳論したとおり、これらの自治内容は慣行的権利として確立しているというにとどまらず憲法二三条および二五条の解釈上、不可欠な要件とされるに至つた学生の自治、学寮の自治の必須の内容を構成するものである。たまたま学徒援護会理事者らが承認したから認められるに至つたという性質のものではないのである。逆に学徒援護会ないし国の経営権、管理権、国有財産権はいずれもかように憲法上の保障に立脚する学生の自治、学寮の自治を妨げない範囲内において承認されるべきものである。憲法二九条二項(財産権が公共の福祉に適合するように定められるべきこと)の趣旨は、この場合において学問の自由の要件たる学生の自治を保障するために学徒援護会、国などの財産権ないし財産権の機能としての管理権などが制限されることを定めたものと解釈されなくてはならない。それゆえ「教育目的や効果などを考慮しつつ館生を指導するという立場にある援護会に最終的決定権がある」とする原判決の判断は、憲法二三条および二五条などの規定の解釈を誤り、学問の自由の保障、具体的に学寮の自治の保障について援護会にほしいままな制限、破壊を許容する論拠をつくり出したものである。仮に最終的決定権なるものがあるとすれば、その決定権は、抽象的かつ無拘束に存在しているのではなく、前記学寮の自治の必須の内容を侵害したり制限したりするものではなく、かえつて自治を増進し、一層自治運営の成果を発揚せしめるために行使されるべきなのである。原判決はかようにして具体的に憲法二三条および二五条にもとづいて学生大衆の自治権を擁護すべき憲法の護持者としての使命を放棄し被告人の行動の正当性を否定するに至つたのであり破棄されなくてはならない。〈以下略〉

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